対象が無ければ好意は生まれないのか
お久しぶりです。
定期テストが終わったので更新します~*°
夜中の寝ぼけあたまで書いてるので、へんてこな内容になるかもしれません(´ . .̫ . `)
ちょっと今回は、『好き』についてぐだぐだ話しますね。完全自論なので暇つぶしにお読みいたたげると嬉しいです~。
好きの感情はそれのみでは成り立つのか?
「〇〇っていう芸能人が好き」「このブランドの服が好き」「あの子のことが好き」
などなど、よく耳にする「好き」には必ず対象が存在するように思えます。
何かに対して好意を抱く。人であれ物であれ雰囲気であれ、ある惹かれる原因・物質があった後に「好き」が生まれる。
対象が存在する事実の後に好きが成り立つ。
とても良くある話だと思います。
その逆は果たして好きと言えるのでしょうか。 このことについて悩む機会が最近増えました。
というのも、特に何か思っていた訳でもなく、何かに対して惹かれたわけでもないのに、胸の内から「好き」があふれでてきてくるしくなる…という事が最近度々起きるのです。
ここであふれでてきてる感情の名前は「好き」なのか。それとも違うなにかなのか。それを知りたく思っています。
この苦しさに襲われる度、やり場のない「好き」をなにかにぶつけたくなって、何かを誰かに好きと吐き出したくなる欲にかられます。
しかし、その対象は何だっていいのです。また、その苦しみが消えた時、その対象への好意が生じることはありませんでした。
果たしてこのあふれでてきてる感情は好きなのか。
「好き」という感情は対象なしで生じるものなのか?
先ほども記したように、対象ありきの好き はどこにでもあるものでしょう。
ただ、「好き」という感情があったあとに対象が現れる。または対象なしに好きだけが溢れる。
こんな事象は果たして実在するのか?
もし実在しないならこのあふれでてきてる感情はどう名付けたら良いのだろう。
と、最近よく思っています。
同じ経験をしている方の話も聞いてみたいですね。
感情にいちいち名付けなくてもいいかもしれませんが、やはり名前があった方がどこか整理して考えやすいものです。
あふれでてきた際の処理も多少は楽になることを期待している面もあります…
好意を抱くという表現は常に抱く対象が記されています。
「好き」のみで好きが成り立つ事象は過去に存在したのでしょうか。探したら見つかりそうな気もしますね。興味深いです。
締めくくり方がなってませんが、夜も遅いのでここで終えておきますね。
今回はいつもより読みづらいかもしれません…ごめんなさい。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
風邪にはお気をつけください。